アークセリアの古い礼拝堂では、アリシア、セラ、ヴィクターがクラウディアたちの到着を待っていた。彼らは兵士ではなく、戦い方を知らない。エクレシアへ乗り込むには心もとない。どうしてもクラウディアの知識を必要としていた。アリシアが地図を広げ、セラが薬草を点検する中、ヴィクターが窓の外を見張る。「何か…変だ」ヴィクターが怪訝な表情を浮かべた。街の空気が重い。自然そのものが息を止めたように、人々の出す音が鈍く、遠く聞こえる。突然、礼拝堂の外で地面が震え、異様な軋みがアークセリアを包んだ。石畳の隙間から、黒い茨の蔓が這い出し、まるで生き物のようにうねりながら街を覆う。住民たちの叫び声が響く中、蔓は木々の形に成長し、血のような赤い花を咲かせ、その花弁から毒々しい香りが漂った。「逃げろ……」花弁が不自然に震え、花の中心から聞き覚えのある声が漏れた。しかし、言葉は途切れ、概要はつかめなかった。ゾディア・ノヴァの魔術だ。 瞬時にヴィクターは悟った。背筋に冷たいものが走る。アリシアとセラが藩のするより先に、礼拝堂の窓が軋み、黒い茨がガラスを突き破り、内部に侵入してきた。蔓が触れるもの全てを絡め取り、壁に巻きつく。蔦の重さに耐えきれず、石壁が枯れるように崩れ落ちた。ヴィクターが扉にバリケードを積み上げながら叫ぶ。「何だ、これ! 街が……植物に飲み込まれてる!」外では建物が茨に絡まれ、木々が不自然にねじれ、赤い花が地面から次々と咲き乱れた。花の香りに触れた住民たちは目が虚ろになり、ふらりふらりと歩き、立ち尽くしている。恐怖と混乱が街を震撼させた。「町の人たちが……」セラが声を震わせ、手に持つ薬草を握りしめた。アリシアは衣の裾を翻しながら身を沈めた。足を滑らせるように一歩踏み出し、しなやかな動きで身構える。その姿は舞台に立つ踊り手のようだった。「クラウディアさんたちがもうじき来る。今は持ちこたえるしかない」アリシアの視線は礼拝堂の外に注がれている。赤い花が何かを囁いている。「エクレシア……無駄だ……」この黒い茨と血の花は何なのか? どうしてアークセリアを襲撃する必要があるのか。ゾディア・ノヴァの目的が見えてこない。答えは見えず、ただ異様な自然の暴走が街を飲み込んでいた。
クラウディアは荷を背負い、エリオとナディアを従えてクローヴ村の集会所を後にした。 早朝の霧が村を深く包み込み、空気はいつもより重く、湿り気を帯びている。 村の広場には村人たちが見送りに集まっていた。 老いたハーヴェイが帽子を胸に抱き、その隣で、トランとミラはハーヴェイに倣うように背を伸ばして並んで立っていた。 二人ともまだ若い。しかし、未成年ながらも見送りの場に立つことを選んだ。 ミラは唇をきゅっと結び、視線を逸らさずにクラウディアを見つめている。だが、手袋の端を撫でる指先が、内に秘めた感情の揺れを無言で語っていた。 トランも腕を組んではいたが、その肩はわずかに震えている。 二人とも気丈に振る舞おうとしているのは明らかだった。 クラウディアは周囲を見渡した。しかし言葉を発する者はいない。誰もが不安なのだ。 クラウディアは一人一人に目を向け、短く頷く。その仕草は別れの挨拶であると同時に、言葉にできない感情の受け止めでもあった。 彼らの沈黙は、恐れの証── だが、それは当然のことだとクラウディアは思った。 森の向こうに何が待ち受けているのか誰にも分からない。言葉を交わすよりも、黙って立ち尽くすことの方が、今はずっと誠実に思える。 村人たちの姿に、クラウディアはかつての自分を重ねた。 視線を遠くに移す。 ゾディア・ノヴァにいた頃── 声を上げることが命取りになる世界だった。 疑問を口にすれば監視の目が向けられ、反論すれば、すぐに記録に残された。 命令は絶対で、感情は不要。 そこでは、誰もが自分の存在を曖昧にしながら、ただ「生存」のために動いていた。 何を見ても、何を思っても、それを言葉にすることは許されない。沈黙こそが安全であり、従順こそが生存の絶対条件だった。 だが、その沈黙の中で少しずつ自分を失っていくことになる。 何を望んでいるのか、何を恐れているのか── それすらも分からなくなるほどに、命令に従うだけの日々が続いた。 エリオと同じように私も、ある瞬間に気づいたのだ。 このままでは、自分が誰だったのかも分からなくなると── だからこそ、言葉を交わすことの危うさを誰よりも知っている。 言葉は時に、真実よりも先に恐れを呼び寄せる。 口にしてしまえば、たちまち、まだ見ぬ恐れが形を持ち、目の前に立ちはだかるのだ。
クラウディアは荷を背負い、エリオとナディアを従えてクローヴ村の集会所を後にした。 早朝の霧が村を深く包み込み、空気はいつもより重く、湿り気を帯びている。 村の広場には村人たちが見送りに集まっていた。老いたハーヴェイが帽子を胸に抱き、その隣で、トランとミラはハーヴェイに倣うように背を伸ばして並んで立っていた。二人ともまだ若い。未成年ながらも見送りの場に立つことを選んだ。ミラは唇をきゅっと結び、視線を逸らさずにクラウディアを見つめていた。だが、手袋の端を撫でる指先には、落ち着かない気配が滲んでいる。トランは腕を組んではいたが、その肩はわずかに震えている。頼もしげには見える。しかし気丈に振る舞おうとしているのは明らかだった。クラウディアは周囲を見渡した。しかし言葉を発する者はいない。誰もが不安なのだ。クラウディアは一人一人に目を向け、短く頷いた。その仕草は別れの挨拶であると同時に、言葉にできない感情の受け止めでもあった。彼らの沈黙は、恐れの証だ。だが、それは当然のことだとクラウディアは思った。森の向こうに何が待ち受けているのか誰にも分からない。言葉を交わすよりも、黙って立ち尽くすことのほうが、今はずっと誠実に思えた。村人たちの姿に、クラウディアはかつての自分を重ねていた。ゾディア・ノヴァにいた頃──声を上げることが命取りになる世界で生きて来たのだ。沈黙の中に身を潜めていた。だからこそ、言葉を交わすことの危うさを誰よりも知っている。言葉は時に、真実よりも先に恐れを呼び寄せる。口にしてしまえば、たちまち、まだ見ぬ恐れが形を持ち、目の前に立ち現れる気がするからだろう。だからこそ、沈黙が必要な時もある。言葉よりも深く、確かに、感情を伝える手段として──沈黙は逃避ではない。それは揺れる心を守るための盾であり、まだ言葉にならない想いを育てるための静かな場所なのだ。
「エリオ、あなたは変わったわね。でも目元だけは変わってない」 クラウディアはエリオの顔を見つめながら、遠い記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。 幼い頃の少年──ゾディア・ノヴァの影で遊ぶ、あの無邪気な足取りが、今のエリオの穏やかな歩みに重なる。「昔、あなたの母親──サフィアが薬草の仕分け場で働いていた頃、よくあなたを連れて来ていた。あの頃は、まだ戦の気配も遠くてね。あなたは棚の影からじっとこちらを見ていた。物静かだけど、目だけはよく動いていた。何かを見て、何かを考える。そんな子だった」 エリオは少し照れたように肩をすくめ、軽く頭を掻いた。 当時、幼かったエリオはクラウディアのことをよく覚えていない。それでも、クラウディアの語る言葉が胸の奥に微かな熱を灯した。 その隣で穏やかな笑みを湛えて座っていたナディア。クラウディアの言葉に視線をわずかに揺らす。 その揺れは、過去と現在の狭間に立つ者だけが持つ葛藤の表れだった。 ナディアもまた、エリオの過去を知らないわけではない。 まだエリオがゾディア・ノヴァにいた頃。エリオが、どのような場所に身を置き、どのような命令に従っていたか──断片的ながら耳にしていた。だが、目の前にいるエリオは、その頃の彼とは違う。 今のエリオは自分の意志で歩いている。意味も分からないまま、誰かに命じられたからと行動を取る彼ではない。 過去が語られる度に、エリオがそこからどれほど遠くへ来たかを思い知らされる。そして、自分がその歩みに並んでいることが、どれほどの意味を持つかも── クラウディアはナディアに視線を移した。「あなたはゾディア・ノヴァの出じゃなさそうだね。元々は普通の暮らしをしていたんだろ。戦や命令とは無縁の、穏やかな日々を」 振舞いも、視線の動きも、訓練された兵士のそれではない。だが、そこには日常を失い、何かを越えてきた者の痕跡が刻まれている。「エリオと出会ってから、いろいろありました」 それだけを言って、ナディアは目を伏せた。 語らなくても分かる。その言葉の奥にあるものが…… もちろん全ては分からない。しかし、どのような道を通ってここまで来たかは容易に想像することができる。 長く、厳しい道を歩んできたに違いない。「そうだろうね」 クラウディアは慈しみの眼差しをナディアに向けた。「変えなきゃいけないね。
「それは大変だったね。よく、ここまで来た」 そう言って、クラウディアはエリオの顔を見つめた。 エリオという名に、過去の一場面が水面下からゆっくりと浮かび上がってくる。 やはりそうだ。このエリオは私の知るエリオで間違いない。「君は……サフィアの子どもじゃないか。あなたの親は薬草の仕分け場で働いていたはず。どおりで……聞き覚えのある名前だと思ったよ」 クラウディアは目を細めて、少しだけ息を吐いた。「実はね、私もゾディア・ノヴァから離れた者の一人なんだよ」 それは過去を語るというより、エリオの言葉に応えるような語りだった。「戦乱のあと、この村に身を置くようになった。頼まれてね──この地を守る役目を」 エリオが顔を上げる。 クラウディアは椅子の背にもたれたまま、窓の外に目を向けた。「最初は戸惑ったけどね。でも、ここでなら少しは静かに生きられると思った。当時の監視の目は今ほど厳しくはなかったから、それが可能だったのよ」 霧がまだ残っている。その向こうに、かつての戦場も、組織の影も、すべてが沈んでいるように見える。「さっき、“逃げて来た”と言ったね。でも、それは違う。あなたは生きるために、その道を選んだ。それは逃げじゃない。正しい選択だ」 クラウディアはそう言って、今度はナディアに目を向けた。「その子のことが、大事なんだろ?」 エリオが頷く。「一緒に歩いていく。あなたは、そう決めたんだね」 クラウディアは目を細めた。 言葉にしない想いが、クラウディアの表情の奥に沈んでいる。それは、かつて誰かを守ろうとした者だけが持つ、痛みを知る者の想いだった。「誰かと道を共に歩むってのは、ただ隣に立つってことじゃない。その人の痛みを背負う覚悟があるかどうか──それが試されるんだよ。まして、あなたたちのように、追われる身であればなおさらだ。だけど──それでも共に歩むと決めたなら、それは強さと言える」 クラウディアの言葉が部屋に落ちた後、しばらくの間、誰も口を開かなかった。 言葉の重みが、二人の胸に深く沈んでいく。「はい。僕たちは共に歩いていきます。どんなことがあっても」 エリオとナディアは、ゆっくりと息を吸って前を見据えた。 その声に迷いはない。だからこそ、二人は今、ここにいるのだ。 クラウディアが深く頷く。「あなたたちは、もう逃亡者じゃない
「通してちょうだい、ハーヴェイ」 ハーヴェイが頷き、踵を返して去ると、ほどなくして二人の人物が現れた。 そこに立っていたのは、長身の青年エリオと黒衣の女性ナディア。しかしエリオの顔を見ても、クラウディアの心はすぐには反応しなかった。かつての少年の面影が時の流れに埋もれていたからだ。 青年が一歩踏み出し、穏やかな声で言った。「クラウディアさんですか? 私はエリオと言います。そして、こちらがナディアです」 エリオの微笑みは礼儀正しく、しかし、どこか遠いものがあった。クラウディアを覚えている様子はない。 クラウディアは目を細めて、エリオを観察した。エリオの声、立ち振る舞い、その瞳の奥に、確かにあの少年の影がちらついている。だが、クラウディアはそれを口には出さなかった。 クラウディアは椅子に腰を下ろすと、二人に向かって手で座るよう促した。 エリオは軽く頭を下げ、ナディアもそれに倣って一礼する。二人は並んで腰を下ろした。 クラウディアは二人の所作を見て、ここまで何かを背負ってやって来たことを感じ取った。穏やかでありながらも、どことなく緊張を孕んでいる。「直接、アークセリアに向かうものかと思っていたよ」 そう言って、クラウディアは笑みを浮かべた。 その言葉に特別な色はない。だが、クラウディアは何気ない会話の流れを装いながら、エリオの表情の揺れを拾おうとした。 エリオがどう応じるか。それを確かめたかったのだ。 エリオとナディアの名はイオの手紙に記されていた。そして、エリオに関しては遠い記憶として、クラウディアの胸に残っている。 セリカ=ノクトゥム時代──まだ幼かった少年が薬草の仕分け場の隅に座っていた姿。エリオは親の手元をじっと見つめていた。 今、目の前にいる青年が本当に、あのエリオなのか。クラウディアは確信を持てずにいた。「クラウディアさんがおっしゃるように、僕たちは直接、アークセリアへ向かうつもりでした。カデルという人物から手紙が届いたのですが、本当に行って良いのか少し不安で……決してカデルを疑っているわけではないのですが……」 エリオの言葉は途中で途切れた。 慎重に言葉を選びながらも、内心の揺らぎが隠しきれていない。 カデル──情報屋として知られる男。 色々ときな臭いところはあるが、根は真っすぐな人間だ。「その手紙には何と?」